ラオスは人種のるつぼであり、数十もの民族がいるとも言われている。(「ラオスについて」のページでも若干記述してある。)
詳しく聞いていないので推測部分もあるが、父と母はベトナムや中国の血が混ざっている黒タイ系。下の写真は黒タイ族のイメージ。
父は、読み書きは中国語で、それ以外にベトナム語やいくつかの少数民族の言葉が話せた。
黒タイを含めるタイ族系の言語は、もともと同じ地域から南下してきた種族の枝分かれで、ラオ語やタイ語のルーツでもあるので、
かなりのなまりはあるのだが違う種族同士でも結構言葉が通じる。
母は、ベトナム語が話せた。両親の母国語は基本的に黒タイ語となるのであろうか。
バンバーン村に移住してきた両親の間には、私より12歳年上の長兄を頭に子供が11人いたが、
その内1人は私が生まれる以前の幼い頃に事故で、もう1人の末っ子は未熟児で生まれてすぐに
亡くなっているので、感覚的には11人家族ということになる。
私たち家族の苗字は「趙」(日本式でちょうと読む)という中国名だったが、
ラオスの学校に通わせるためにラオス的な「ペンワット」という名前に変えた。
私の名前のカムサーンも「山」と書いて「サン」のみだったが、ラオス的にカムを付け足したのだ。
だから、兄弟同士ではいまだに中国名で呼び合っている。
兄弟とはいっても、皆がいっしょに暮らした時期はなく、気持ちのつながりの少ない兄弟もいる。
以下は私の兄弟たち。
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黒タイ族の女性 独特の髪型 |
- チーウィー(長男)
幼い頃不発弾で遊んでいて右手の指を2本無くした。15,6歳で出兵して以来ずっと兵隊として働いていたので、
家にはほとんどいた記憶がない。
学校に通うため、シェンクアン県サムトンで3年ほどこの長兄の家族と共に暮らした。非常に厳しい兄で、
居候している私が朝晩の水汲みをさぼると、よくぶたれた。
- カムク(長女)
私が幼い頃面倒を見てくれたのだろうが、物心つくようになる頃には姉は親戚の家で暮らしていたが、結婚してからはしばらくの間同居していた。
唯一現在もビエンチャンで暮らしている。
- ファー(3男)
14歳頃に出兵。数年後に除隊して疎開してきた家族とビエンチャンで合流。その後、エアーアメリカでコックとして働いていた。
私が5歳頃、初めて釣りに連れて行ってくれた兄である。
- インサイ(4男)
兄弟の中でも一番のいたずら好き。幼い頃はだいぶ両親を困らせたようだが、子供も巣立った今は望郷の念にかられている。
年が近かったせいか、私はこの兄が好きで、いっしょに遊びたかったのだが、なかなか連れて行ってもらえなかったのを覚えている。
- カムケオ(次女)
私のすぐ上の姉で、ずっといっしょに生活していた。よくまきを拾いに行ったり、家の手伝いをいっしょにした。
- カムサーン(私、5男)
- カムケン(6男)
すぐ下の弟で、空襲の時などは私がおんぶして山まで逃げた。
- ボウケオ(3女)
やさしい妹で、離れて暮らすようになってからは私のことをよく気にかけてくれる。
- ボワトン(7男)
兄弟の中で唯一華僑系の高校を卒業した。
黒タイ族 |
内戦が続いていたラオスで出兵するということは、日本のように
戦地へ向かうという感覚ではなく、給料がもらえる仕事の選択肢の
一つとして志願していたように理解している。
私が幼い頃の内戦は、領地争いのための威嚇射撃くらい
だったように思う。
父は、私が来日する数年前に事故で亡くなっているが、
それ以外の家族は、現在姉一人を除いて全員米国で暮らし、
その子供たちも皆成長している。
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市場から約500m、駐屯地向かいにあった私の家は、土壁に萱葺き屋根の日本の田舎家のようなつくりだった。
床はすべて土間で一部屋が非常に広く、20畳ほどの大きさの部屋が4部屋、その半分くらいの大きさの部屋が2つ、
台所が2つあった。
雑貨屋として使っていた一部屋、もう一部屋は主に山岳民族が村に物を売りに来た時などに利用する民宿として開放していた。
ベッドは竹で作った簡易ベッドのようなもので、その上にマットをひいて蚊帳を張って寝ていた。
上の兄達が出兵してからは、私は雑貨店として使用していた一室の食品棚裏にあったキングサイズほどもある広いベッドで
私一人で寝ていたのだが、夜になると聞こえてくるフクロウの鳴き声が怖かったことを覚えている。
トイレは庭の一番奥の家から100m程離れた所にある小屋で、穴が掘ってあるだけのほぼ自然のままのトイレだった。
水浴びが風呂の代わりで、雨季は洗い場、乾季は井戸のまわりでと決まっていた。
洗い場は、横の水路から水を引いて洗濯や炊事に使っていた。飲料水は井戸水を利用していた。
下の見取り図の尺図が正しくないが、横幅が約50m、小川までの奥行き100mほどの敷地の裏庭では、
バナナ・パパイヤ・さとうきびや野菜などを栽培し、豚を飼い、大きな池には鯉も飼っていた。
この自伝は、私の記憶を整理しながら、断片的不定期に追記していくため、時期が前後することもあります。