両親がこの村に来てすぐは軍長専属コックとして働き、ビエンチャンから要人が来る際などの料理を任されていた。 その時の功績が認められ、この村での土地が与えられた。ベトナムと中国国境沿いから移住してきた外国人であった両親が、 ラオスで土地を得ることはむずかしい時代だった。 私が生まれる以前の植民地時代には、フランス兵相手のレストラン経営、 モン族が民族衣装を作るために使う布や調味料などの生活必需品を満載にした馬20頭にを引き連れ、 日雇いのカー族やモン族といっしょにサムヌアの山間を2ヶ月くらいかけての行商。モン族からは銀を交換してもらい、 それを村で売っていた。それから雑貨店だ。 私が手伝いをできるようになった頃には、市場で自家製の食べ物や酒などを売っていた。 村の中心となる市場は、この村と近隣の村から行商にやってくる人々のための商いの場で、出店料さえ払えば誰でも 店を出すことができる自由市場だった。平日は一部の店だけが開いていたが、土曜・日曜日には、農民が作物を売りに来て 非常ににぎわっていた。その季節に取れる新鮮な農作物、川魚、山菜、生活雑貨、服など何でもそろっていた。 私は、毎週違う物が並んでいる店先で、へびやイノシシ、見たことのないような大きな魚などを発見するのが大好きだった。 私が小学校に入った頃からは両親を手伝い、せんべいやおかしなどを売っていた。 開いている店が少ない平日は、大きい屋根が付いている市場の下が、雨季でも遊べる子供たちのかっこうの遊び場となった。 ある日、棚から棚へ飛び移って遊んでいた時、ジャンプに失敗して私は前歯を折ってしまったことがある。 幸いにもその歯は乳歯だったので事なきを得たのだが、しばらくの間、友達からは「歯抜けの坊や」などとからかわれた。 実はこの市場には別の役割もあった。まわりの小さい村々から人々が集まるのだが、それは男女の出会いの場でもあったようだ。 人の行き来があまりない小さな村々にとっては、この市場での人との出会いは大事なものだったのだ。 ラオスの焼酎「ラオラーオ」作りは、私が6歳頃から始めた商売だった。 ラオラーオを作っている家は他にもあったが、両親の作る酒は透明度が高くおいしいと評判でよく売れた記憶がある。 まず、裏庭の小川の水でもち米を洗い発酵させる。発酵にはある種の葉を使うのだが、キウイフルーツの葉によく似た その地ではよく見かけた葉だった。ここから先の作り方は秘密で、親から口止めされていた。 が、図解してみた。大掛かりな機械があるわけでもなく、手に入るもので作られていた。 まず、土で作った釜土の上にドラム缶、その上に中華鍋を置く。鍋とドラム缶の間から 蒸気が逃げ出さないように密封する。水路から引いた冷たい水が、半分に割った竹から 絶えず中華なべの中に流れ落ち、フライパンを均一に冷やす役目をしている。 さらに、余分な水は反対側のホースから排水されるよう工夫してあった。 他の人が作るラオラーオは、この行程を手汲みでしていたので、鍋が均一に冷えていることがなかった。 これがおいしさの違いと思っている。 発酵したもち米が入ったドラム缶を蒸すことで水蒸気が鍋の裏にたまっていき、それが冷やされることで水滴となり、 受け皿から瓶に落ちる仕組みになっていた。一日かけて一升瓶20本くらいは作れただろうか。 できあがったラオラーオは壷に入れ、ポンサワーンまで売りに行き、そのお金で豚を買ってきた。豚の餌には、酒作りの副産物である 酒粕に芋や野菜を混ぜて蒸したものを与え、ぶくぶくに太らせてからさばいて市場で売った。 酒作りにはもち米をたくさん使うのだが、まわりの村から週に一度くらいの割りで、20Kgほどの米を肩に担いで歩いて売りに来て くれる人がいた。買い取るといううわさは口伝えで広がり、数人が売りにきていたのを覚えている。 このつながりは、後に疎開する際に助けとなる。 この自伝は、私の記憶を整理しながら、断片的不定期に追記していくため、時期が前後することもあります。
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