ラオスの小学校の始まりは雨季が終わった9月頃からである。 意気揚々と登校した初日、黒板の字をうまく読めなかったため、先生に指名された同級生にひどくぶたれ、 意気消失してその小学校をやめてしまった。 その後は家族経営の華僑系の学校に通うことになる。授業はすべて中国語で行われた。 中国系の父のもとに育ったが、中国語が出来たわけでもなく、言葉が通じなかったはずだが、 そこは子供同士通じるものがあったのか、他の子供たちとよく遊んでいた。 学校では、授業というより遠足に行ったり遊んだ記憶しかなく、読み書きぐらいしか勉強しなかったように思う。 しかし、1年間通うことなく、先生が田舎に帰ってしまったため閉校となり、2年生からまたラオスの小学校に戻ることになった。 が、2年生途中で内戦が始まり、ほとんどの先生が徴兵されたりで学校が機能しなくなり、またもや通えなくなってしまったのである。 こうしてバンバーン村での学校生活は終わることになる。 この自伝は、私の記憶を整理しながら、断片的不定期に追記していくため、時期が前後することもあります。
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